尾上松緑、藤間勘右衞門の日記

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2019.01.11 Friday

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皆、一度は考えた事が無くは無いと思うんだけれど

出来る筈は無いのは分かっていながら「自分の人生、もう一度、一から始め直したい」とか「あの時点からもう一度、やり直したい」とか、頭を過った事は無いかな
俗に“強くてニューゲーム”と呼ばれる奴
僕も、若い頃はそう考える事が有った
でも、年を食ってからは、いつの間にか意識をしなくなっていた
昨晩、ベッドの中でふと「いつからだろうか、何故だろうか」と耽ってみた
明確な結論が出た訳では無い
しかし、「恐らくは」と、思い当たる推測は有った
確かに、生きていれば嫌な事は多い
いや、「嫌な事が殆どだ」と、言っても過言ではない
それでも、今、僕の人生で手に入れた、数少ない、手放したくない事象、人々、その人々との関係性や、その人々との情等
これまで僕の歩んで来た人生
一挙手一投足違っても、一分一秒ずれても
今、僕が「有難い」、「嬉しい」、「安らげる」と、思う状況にはなっていない筈だ
“強くてニューゲーム”をやり直したとしてもだ
例えば“あの時に学校を辞めていなかった”ら、今の娘や息子が生まれて来なかったのかも知れない
「僕の子供逹が、今の娘や息子でなかったら」等とは断じて考えられない
第一、あの娘、あの息子だから、我が子として愛せるのだ
他の子供だったとしたら“我が子”と、愛せる訳が無い
また、“あの時、鎖骨を折っていなかった”ら、ひょっとしたら、今、親友と思えている奴等と、今の様な関係にはなれていなかったかも知れない
“バタフライ・エフェクト”や“シュレディンガーの猫”同様に、何処かに少しずつの因果律が働いて、今の自分の人生が形成されているのだろう

全ての偶然の、数え切れない無数の点の集合が線になって、今、必然となって事実として存在しているのではないか
そりゃ、勿論、祖父の死、父の早逝、叔母夫婦(父の姉とその夫)の執拗な攻撃滲みた行為、学生時代のアウトカーストとかの様に、書き換え、塗り替えたい過去や、消し去りたい事柄、憎しんでも憎しみ足りない者逹が積もる程に多い事には変わりない
それでも、そんな事以上に密度の濃い、数少ない大切な人々と巡り逢った
それが有るだけで、如何に自分自身は糞っ垂れながらくたでも
この、自分の人生だけは「決して捨てた物ではない」
「“強くてニューゲーム”でプレイし直したい」とは、思わなくなった
「呪いは掛かっている、掛けられている意識をしないに限る」
「緊急検証シリーズ」の何作目かで大槻ケンヂさんが言っていた
いい事を言うよな
高畑充希さんは「疑うよりも、信じている方が幸福」、と言ったとか
確かにな
人生も既に半分以上を折り返した今、そんな風に考えると、心が軽くなる
1舒未麓分を許してやってもいい気になる
少なくとも、今後もそう云った類いの後悔だけはしないで生きて行きたい

断言出来る
最低限度、僕は甘えては生きて来なかった
甘っ垂れていては生きては来られなかったからだ

或る時期から、我儘は言って来なかった

先ず、我儘は言った所で通らない、言ったら生きて行かれない所で生きて来た
或る程度は、律しては生きて来たつもりだ
追い詰めて生きて来たつもりだ
ほんの少し
少しだけは、今の自分が生きている、積み重ねて来た現実を肯定してやりたい


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